仏教とは

仏教は日本では最も身近な宗教ですが、その身近さゆえか、あまり意識して仏教について考えられたことは少ないのではないでしょうか。
寺社仏閣に参拝して、家に仏壇をおいて、お経を聴き、ご先祖を供養して、手を合わせてさえいれば仏教をしていると思うのは間違いです。
正しい心のあり方と正しい行いが大切なのです。

お釈迦様の教え

仏教とはご存じの通り、お釈迦様がおよそ2500年前に悟りを得られて開かれた教えです。悟りとは、この世の真理に辿り着くことです。お釈迦様は、その真理とは何か、そこへ辿り着くためにはどうすれば良いのかを人々に説かれました。基本的な教えの一部をごく簡単にご紹介すると、お釈迦様は「人生とは本質的に苦であることを知り、苦には原因があることを知り、苦は滅することを知り、苦を滅する方法があることを知りましょう(四諦)。そのためには、正しく、ものごとを見、考え、語り、行い、生活し、努力し、注意深く意識し、心を整え集中しましょう(八正道)」と説かれています。

お釈迦様の教え(初期仏教)は、お釈迦様が入滅なされたのち、教えを聴かれた方々の記憶を持ち寄りまとめられ、口伝によって残されました。それが文字化されいくつかにまとめられたものが、いわゆる「お経(経典)」です。お釈迦様の教えはその後、解釈の違いから派閥が分かれていきますが、多くの宗派となって現在も受け継がれています。

お釈迦様の教え

日本への伝来と発展

仏教は最初、個人が悟りを開くための教えとして広まりますが、その中から新たに、仏教は広くすべての民衆を救う教えであるとする思想が起こります(大乗仏教)。その教えはインドから中央アジアを経て、中国に伝わります。そしてそこから日本へと伝わりました。経典も漢訳のものが伝わり、今もお経と言えば一般的に、漢字が並んだものを思い浮かべられるでしょう。『法華経』も伝わった時代は古く、日本書紀には606年に聖徳太子が法華経を講じられたという記載があり、615年には法華経の注釈書として『法華義疏』を著され、これは日本最古の書物とされており、現存しています。

仏教は中国、日本それぞれで独自の発展を遂げ、日本でも数多くの宗派が生まれます。その中でも『法華経』は重要な役割を果たしています。奈良時代に中国(唐)へ留学し、法華経を最高の教えとする天台宗を学び帰った最澄は「天台法華円宗(天台宗)」を興し、比叡山延暦寺で法華経の教えを説きました。その後も比叡山延暦寺は国内最高峰の学びの場となり、数多くの名僧が修業時代を送っています。鎌倉時代には今も残る代表的な宗派がいくつも誕生しましたが、法然上人(浄土宗)、親鸞聖人(浄土真宗)、栄西禅師(臨済宗)、道元禅師(曹洞宗)、そして、日蓮御聖人(日蓮宗)もそのお一人です。

日本への伝来と発展

日蓮御聖人とは?

鎌倉時代中期、「南無妙法蓮華経」という題目を唱え、正法である法華経の教えを説いてすべての人々の救済を願われた日蓮御聖人。
激動の時代を生き、およそ800年の時が経った今なお多くの畏敬を集める日蓮御聖人はどのような方だったのでしょうか。

生い立ちから立宗まで

日蓮御聖人は1222年に安房国(現在の千葉県)の漁村でお生まれになりました。幼少の頃より広く学ばれ、そして「日本第一の智者となし給え」と誓願を立てられます。1238年に出家された後は全国各地の寺院に遊学、ありとあらゆる経典を学び修められて、数ある経典の中でやはり『法華経』こそ真の仏の教えであり、この末法の世においてもすべての人々を救うことができる教えだと強く確信されます。そして1253年に日蓮宗 (法華宗)を立教開宗されたのです。

生い立ちから立宗まで

日蓮御聖人の生きられた時代

日蓮御聖人が生きられた「鎌倉時代」は、大地震、暴風雨、長雨、大火事、疫病、飢饉と、相次いで天変地異などの災害が起こった時代でした。またこの時代はお釈迦様の入滅からおよそ1500年が経ち、お釈迦様の教えが届かなくなる「末法」の世とされた時代でした。

なぜそのように災害が相次ぎ、人々が苦しむことになるのか、日蓮御聖人はお釈迦様の教えの中にその答えがあるに違いないと膨大な経典を調べられます。そして、それらの中に答えを見つけられた御聖人は、この時代にあって人々と国を救うためには、正しい教え、すなわち法華経の教えを信仰することこそが必要であるとの結論に辿り着かれました。

立正安国論

日蓮御聖人は数多くの書を残されていますが、その中でも代表的なものとして1260年に幕府の有力者である北条時頼に宛てた書簡『立正安国論』があります。これは僧と来客の問答の形をとったもので、様々な経典に記された教えを引用して、相次ぐ災害の原因は正しい教えである法華経ではなく念仏のような間違った教えを信じていることにあり、このままでは国内は乱れ、外国からは侵略を受けると説いたものです。それはまさに14年後に「元寇」として現実となるのですが、激しく当時の他宗派を非難したその内容は猛烈な反発を招きました。

立正安国論

大難四箇度 小難数を知らず

法華経には、正しい教えを広める過程では様々な困難に出会うと記されているのですが、日蓮御聖人も多くの法難に遭われます。
中でも四度の大きな法難は「日蓮四大法難」と呼ばれるほどの苦難でした。

まず『立正安国論』を著した直後、その内容を知った念仏者に夜襲、焼き討ちにあいます。(松葉ヶ谷法難)

辛くも難を逃れた日蓮御聖人ですが、念仏者は幕府に働きかけ御聖人を伊豆へ流罪に、しかも伊豆への途中、沖の岩礁に置き去りにさせます。(伊豆法難)

地元漁師に助けられ伊豆法難もくぐり抜けられた御聖人は、2年で赦免となります。布教を続けられる御聖人を、さらに大きな法難が襲います。御聖人にかねてから恨みを持っており念仏者でもあった東条景信に小松原(今の千葉県鴨川市)で襲撃され、御聖人は額を斬られ左手を骨折する重傷を負われます。(小松原法難)

これも奇跡的に逃れられた御聖人は、さらに信仰を深められ、「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」と一層の布教に努められます。しかしそれはさらなる反発を招きます。

この頃、元が幕府に使者を派遣、その食指を日本へ伸ばしてきたことを知った御聖人は、改めて幕府に危機を訴えかけますが、今度は佐渡への流罪を言い渡されます。その佐渡への流罪に際して連行された御聖人は、平頼綱によって龍ノ口(今の神奈川県藤沢市)にて私的に斬首されそうになります。絶体絶命のところ、刑を執行する直前に異変が起きて延期となり、そこへ幕府から正式な佐渡流罪の命令が届いて難を逃れられます。(龍ノ口法難)

このように幾度となく命を落とされそうになりながらも、法華経に「この経を説かんがための故にこの諸の難事をも忍ばん。われは身命を愛せずしてただ無上道のみを惜しむなり(勧持品)」とある通り、まさにそれらの法難を乗り越え、末法の世を生きる人々のために、人々が現世で幸せをつかむために、生涯をかけて法華経の教えを説き続けられました。それが日蓮御聖人なのです。

大難四箇度 小難数を知らず

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